地頭とは?設置までの歴史的背景やその後について解説

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地頭の基礎知識

地頭(じとう)とは

地頭とは、鎌倉幕府から土地管理を任命された役人のことを指します。

地頭は各地方の荘園から税を取る権利と、集めた税を納める仕事をもっていました。

地頭が各地に置かれたことは日本の公地公民制が崩壊したことを意味しています。

地頭は国を管理する各地の豪族から選ばれました。

地頭制度は元々平安時代末期に平家が始めた制度で、これを国策に転換したのが源氏の源頼朝です。

守護との違い

守護は地頭とともに1185年鎌倉幕府の命を受けて主に京都の警備にあたった役人です。

主従関係を結んだ御家人から各国一人ずつ任命され、一つの国に対し一人の守護が置かれました。

守護は京都の警備の他に謀叛人の逮捕、殺害人の逮捕の任務を持っていました。

この3つは大犯三ヶ条と呼ばれ、守護の仕事はこれに限定することで権限の増加を抑えました。

地頭が設置されるまでの歴史的背景

1. 公地公民制(646年)

日本の歴史上、最初に土地制度が改められた最古の事例が646年の「公地公民制」です。

稲作が朝鮮半島から伝播すると土地を持つ重要性が高まり、各地の豪族は土地を多く持つことで各地を支配していました。

このような背景の中で天皇は律令国家を作るにあたり、全ての土地と人民が天皇によって支配されるという考えのもと、公地公民制を作ります。

これは飛鳥時代に始まり、「班田収授法」によって明確な定義がなされました。

また、6歳以上の男女に一律に口分田と呼ばれる国の土地を与え、それに租税がかかる形で税制度も成立します。

これを行うにあたって土地の計測と人々を管理する戸籍台帳が作られました。

2. 墾田永年私財法=公地公民制の崩壊(743年)

班田収授法により与えられた口分田は、所持する人が死亡すると国に返却されました。

また、この頃から口分田が不足し、感染症の流行によって政策が上手くいきませんでした。

この対策として出された法律が「墾田永年私財法」です。

これは新しく開墾した土地の所有を認める法律で、それまでの公地公民制を否定するものでした。

これにより豪族や寺社を中心に土地の開墾が進み、私有地の所有が広まっていきました。

3. 荘園の登場

豪族や寺院が開墾したことで持つ私有地を「初期荘園」と呼びました。

これは800年ごろに成立し始め、日本各地で広まっていきました。

初期荘園の多くは貴族にその土地が寄進されていき、貴族の特権で地租の納税を免れていました。

これを管理するために天皇は902年「延喜の荘園整理令」と1069年に「延久の荘園整理令」を発布します。

これにより免税される荘園とそうでない荘園が明確になりました。

これにより政府の持つ土地(公領)と貴族・寺社が持つ土地(荘園)が区分され、ここに「荘園公領制」が成立します。

4. 源頼朝の台頭

荘園公領制が確立すると、土地管理を行う人の必要性が高まりました。

当初それは荘官と呼ばれる人たちが荘園領主から命を受け、土地管理を任されていました。

また公領に置いても納税上の観点から土地管理の代表を作る必要がありました。

それは地方各地(国)をまとめる国司を受領と呼び、受領が複数の農民から年貢をまとめて天皇に納付する仕組みが生まれました。

これにより公領と荘園は入り混じり、土地の所有を巡って各地で対立が生じました。

この頃から武士が力をつけ、特に力のある源氏の源頼朝が注目されるようになります。

各地の土地管理者は源頼朝と主従関係を結びました。

5. 地頭の登場

源頼朝は政策の一つとして「御恩」を武士に与えます。

それは今まで管理していた土地の支配を認め(本領安堵)、開墾や征服で新たに得た土地の所有を認める(新恩給与)ものでした。

このように土地管理を任せることを「地頭に任命する」といい、各地の武士は地頭に任命されていきました。

源頼朝が実行したこと

日本国惣地頭(地主のトップ)になる

源頼朝は鎌倉幕府を安定させるために、朝廷に2つの要求を求めました。

その1つが頼朝に「日本国惣地頭」として地頭の任命権を与えるというものです。

地頭は当時日本各地の荘園を支配する権限を持っており、また徴税を行う役職でした。

地頭の任命権を得るということは朝廷から徴税の権利を得るということを意味していました。

日本国惣追捕使となる(警察・軍事的官職)

また頼朝は自らが日本国惣追捕使となることを朝廷に求めました。

これは自身の政策に反対する国に対し武力行使ができる権利を持つことを意味しています。

源頼朝は自身の関東武士団の武力で圧力をかけることで、朝廷にこれを認めさせました。

後白河法皇が徴税・警察権を「文治の勅許」で認めると、源頼朝は全国に守護・地頭を置いて幕府の体制を確立しました。

参考:鎌倉時代の重要用語│守護・地頭

地頭のその後

南北朝時代

承久の乱により幕府の政治体制が揺らぐと、地頭は地方の支配権を強めていきます。

荘園領主に年貢を納めない地頭も現れることになり、荘園領主は地頭に一定の年貢納入を請け負わせて荘園の管理は全て地頭にまかせる「地頭請書」を結びます。

さらに荘園の半分を地頭にわけ、荘園領主と互いに支配権を認める「下地中分」も行われました。

これにより地頭は地方の支配権を次第に強めていくことになりました。

戦国・江戸時代

室町幕府が始まると地頭の権力は弱まり、代わりに各地の支配権をもつ守護が力を強めていきます。

やがて、荘園の管理を守護が行うようになると、そこから守護大名とよばれる戦国大名が現れました。

彼らは室町幕府が倒れると地方の支配権を確立します。

やがて豊臣秀吉が天下統一を果たすと、太閤検地による土地調査が始まりました。

全国の土地を一律の単位で測量し、各地の生産高を「石高」で表しました。

この石高制は江戸時代に引き継がれると、地頭の代わりに各藩の藩士が徴税を行うようになります。

この幕藩体制は明治維新で新政府が地租改正を行うまでの長い間続くことになりました。

まとめ

地頭は平安、鎌倉時代に各地の荘園管理を任された役職でした。

地頭は各地の年貢を集める権利と納税の権利を持ち、荘園の支配を強めていきました。

鎌倉幕府が動乱期を迎えるとともにその権力は増していきますが、室町幕府が成立する頃には守護に取って代わられたことで消滅していきます。

地頭について詳しくおさえた上で、日本史の流れを追っていきましょう。

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