天保の改革とは?歴史的背景や結果をわかりやすく解説!

未分類

今回は江戸時代末期に行われた「天保の改革(てんぽうのかいかく)」について解説します。

この改革が始まった原因から改革の経過とその結果について詳しく解説しますので、ぜひ最後までお読みください!

「天保の改革」をわかりやすく説明すると?

「天保の改革(てんぽうのかいかく)」とは

天保の改革とは老中の水野忠邦(みずのただくに)が第12代将軍徳川家慶のもとで行った改革のことです。

江戸時代末期の1841年から1843年のおよそ2年間行われました。

天保の改革は幕府の権威を強化することと財政悪化を改善するために行われました。

享保・寛政の改革にならって倹約令を発布し、財政改善のために上知令を発令しました。

また天保の改革はこの頃大きくなっていた外国からの脅威に対応するためにも行う必要がありました。

江戸の三大改革のひとつ

天保の改革は江戸時代に行われた三代改革の一つであり、享保の改革(1716年〜)と寛政の改革(1787〜93年)に続く江戸時代末期の改革です。

享保の改革は第8代将軍徳川吉宗によって行われ、寛政の改革はその後徳川吉宗の孫に当たる老中の松平定信によって行われました。

「天保の改革」の目的

天保の改革は先代の第11代将軍徳川家斉による悪政を問題として始まりました。

徳川家斉は鎌倉時代以降で50年と最長の将軍だったにも関わらず40人もの側室を抱えて幕府の財政を悪化させました。

また、大御所時代に大量に鋳造された金の割合の低い貨幣が流通したことにより、物価の上昇が著しく民衆の生活に負担が強いられていました。

このような社会情勢を変えるために天保の改革は行われました。

「天保の改革」の内容

まず天保の改革によって行われたのは「倹約令」です。

先代将軍が行っていた華美な服装や贅沢な食事を禁止し、江戸の寄席も減らして歌舞伎を浅草に移転させました。

また衣服・櫛・かんざしの販売にも規制を入れました。

また株仲間による物資流通の独占に目をつけ、これを解散させることを命じました。

幕府は新規承認や江戸周辺の自由取引を目的としてこれを株仲間を解散させましたが、それまでの流通構造がうまく機能しなくなったため逆に物価上昇を増長させる結果になりました。

その他にも田畑を捨てて都会に流れた農民を強制的に村へ戻す「人返し令」を発令しましたが、これも江戸周辺の治安を悪化させて終わりました。

水野忠邦は1843年に江戸・大阪周辺の土地を幕府直轄地として財政の安定と国防を強化する「上知令」を出しました。

しかし大名や旗本から強い反対をうけ、老中からも反対されたことで水野忠邦は老中を退き上知令は撤回されました。

参考:天保の改革ってなんのこと?
参考:天保の改革とは? 水野忠邦が実施した内容や時代背景

「天保の改革」が起きるまでの歴史的背景

1. 徳川家斉将軍のもとで財政悪化

天保の改革が起きる前の将軍であった第11代将軍徳川家斉は、将軍の地位についたのち華美な生活を送っていました。

40人の側室を抱えて55人の子供をもうけ、50年という長い間で幕府の財政をひっ迫させました。

2. 外国船が日本に接近

このころ海外では大国である清がアヘン戦争(1840〜42)によって敗北し、香港を割譲されたという列強の進出が東アジアまで拡大していました。

またロシアの使節楽すまんが北海道の根室に来航し、通商を求めて幕府と交渉しました。

幕府はロシアとアイヌの連携を危惧してこれを拒否し、蝦夷地の海防の強化を図りました。

また1804年にはロシア使節レザノフが長崎に来航しますが、幕府はこれを追い返しました。

その結果、ロシアは報復として樺太と択捉島を攻撃しました。

これにより幕府は初めて外国と抗戦することになり、国防を強化するために松前藩と蝦夷地を直轄地として警護に当たりました。

このように江戸時代末期は外国船の侵入が相次ぎ、国外への不安が高まっていました。

3. 社会不安の増大

天保の大飢饉

1832年から1839年にかけて全国で起きた大飢饉が「天保の大飢饉」です。

冷害・大雨・暴風による自然災害によって大凶作が起こり、全国的な米不足が起きました。

収穫物の生産が例年の3割まで落ちる年もあり、東北・北関東地方を中心に餓死者や困窮者が増加しました。

1836年には元々米不足であった甲斐国郡内地方と三河国加茂郡では一揆が起こりました。

この天保の大飢饉の間に日本人口は125万人も減り、深刻な労働力不足を招きました。

大塩平八郎の乱(1837)

飢饉を受けて富裕層は米を買い占める動きが加速しました。

大坂町奉行は窮民への措置を取ることなく米を江戸に送り続けていました。

この状況を受けた大坂町奉行所の大塩平八郎は1837年に民衆と門弟を動員して放棄しますが、これは半日で鎮圧されてしまいました。

しかし大阪で幕府の役人が反抗したことは幕府に大きな影響を与えました。

これによる影響は各地に及び、生田万の乱や各地の百姓一揆を起こすことになりました。

4. 水野忠邦が天保の改革を実施

このように国内が「内憂外患」に陥るのを見て水野忠邦は天保の改革を行います。

ぜいたくの禁止・倹約・風俗の取り締まり、株仲間の解散、人返し令、上知令などを行いますが、どれも明確な効果が上がることはありませんでした。

参考:天保の改革ってなんのこと?

「天保の改革」のその後

2年で水野忠邦は失脚

上知令を発令したことをきっかけに水野忠邦は老中の地位を降りることになりました。

そして幕府の権威は落ち、幕府以外の勢力が力をつけるようになりました。

特に朝廷では幕府ではなく天皇主体の政治をすべきという考えが広まったことで、後の尊王攘夷運動や討幕運動の流れに繋がっていきました。

また地方の藩では優秀な武士を起用して改革を行ったことで力をつけた藩が多く現れました。

薩摩・長州・土佐・肥前藩などがそれにあたり、この藩は「雄藩」と呼ばれました。

雄藩は米の生産の他に物の売買に着目したことで利益を得ていきました。

この雄藩は後の討幕運動の主体となり、明治政府が樹立された際の役人になっていきました。

参考:天保の改革ってなんのこと?
参考:天保の改革とは? 水野忠邦が実施した内容や時代背景

まとめ

今回は天保の改革について解説しました。

享保・寛政の改革と比べて十分な成果を出すことができなかった天保の改革は幕末の討幕運動を増長させることになり、幕府の権威を落とすことになってしまいました。

水野忠邦が行った政策はしっかりと整理することで、この時代の要点を抑えることができるでしょう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました