【金融恐慌】原因や対策、流れをわかりやすく解説!

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「昭和金融恐慌」は、昭和初期に日本経済を襲った重要な出来事です。

その背後にはさまざまな要因が絡み合い、企業倒産や経済の停滞が広がりました。

この記事では、その主な原因や影響を明らかにし、政府や金融機関がどのような対策を取ったかにも焦点を当てて解説します。

この記事を通じて、金融恐慌が経済に与える影響と、その克服への取り組みについて理解を深めていきましょう。

金融恐慌とは

金融恐慌とは昭和恐慌とも呼ばれ、1927年(昭和2年)3月に発生した経済恐慌のことを指します。

第一次世界大戦中の好景気から一転し、1920年には日本経済は戦後の不況に突入しました。

この時期、企業や銀行は不良債権に悩まされました。

同様に、1923年の関東大震災も経済的混乱を招き、震災手形は多額の不良債権となりました。

一方、小規模銀行は経営が悪化し、金融不安が広がっていました。

1927年3月14日、片岡直温蔵相は衆議院予算委員会で「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」という失言をしました。

これが金融不安の引き金となり、特に中小銀行を中心に取り付け騒ぎが勃発しました。

一度は鎮まるものの、4月に鈴木商店の倒産と台湾銀行の休業が相次ぎ、金融不安が再燃しました。

金融恐慌が起きるまでの流れ

1915〜1920:大戦景気

大戦景気とは、1915年から1920年3月までの期間に及んだ、日本の好景気を指します。

日露戦争後の約10年間、日本は「五大国」の1つとして位置しましたが、その間日本は国際収支的には、常に赤字状態でした。

しかし、第一次世界大戦が始まると、日本は連合国側でしたが、本土が戦地圏外に位置していたため、商品輸出が急激に増加し、この好景気が生まれました。

この時期、工業生産は急速に拡大し、重化学工業化も進展しました。

これにより、日本も文化的に大きな発展を遂げました。

1920:戦後恐慌

戦後恐慌とは、第一次世界大戦後、大戦景気が終わったことにより日本で起こった不景気のことを指します。

日本政府は、第一次世界大戦後日本の景気が落ち込むと予想し、内需拡大・積極的な輸出振興などの政策を行いました。

しかし、第一次世界大戦後すぐには景気が落ち込まなかったことと、これらの政策のおかげで、日本は大戦景気以上の好景気に突入してしまいます。

その結果、国内では急激な物価の上昇が起こりました。

また、輸出の面では、日本の製品の値上がりが続き、その上でヨーロッパ諸国の製品が市場に戻ってきたことで、日本の製品が売れなくなってしまいました。

1920年3月、遂に日本の株価は大暴落してしまい、日本は不景気へと突入しました。

大戦後、日本は債務国から債権国に変わりました。

しかし1919年以降は輸入が輸出を上回り、大戦景気の間に好調だった綿糸や生糸の相場も1920年には急落し、打撃を受けました。

このため、多くの銀行が閉鎖し、紡績・製糸業界も操業時間を削減せざるを得ない状況に追い込まれました。

政府の支援策により、恐慌は収束しましたが、大戦中に事業を拡大した多くの経営者は大きな打撃を受け、中小企業も多数が倒産しました。

こうした状況に対し、企業経営者は利益を見せかけるために粉飾決算が広まり、銀行も不良債権を隠蔽して利益を偽装する事例が増加し、事態を更に悪化させる結果となりました。

1923:関東大震災

1923年9月1日、関東大震災が起こりました。

戦後恐慌の回復が充分でない状況の中での、関東大震災は、日本経済はさらなる打撃を受けました。

経済はなかなか回復せず、不景気は継続しました。

金融恐慌の原因:震災手形

手形とは

手形は、仕事を依頼する際に即座に支払わずに後で支払う約束を証明する書類であり、「約束手形」とも呼ばれます。

手形は大きな金額の取引において、企業がすぐに資金を用意できない場合に使用され、当時は企業間の取引で頻繁に利用されていました。

また、手形は割引手形という形で他人に譲渡することが可能でした。

したがって、資金に困った企業が現金を得るために、他社から受け取った手形を割引いた形で銀行に譲渡するということもよく行われていました。

震災手形の発行

政府は「震災手形」と呼ばれる手形を発行し、関東大震災により危機的な状況に陥った企業を救済する取り組みを行いました。

関東大震災が起こり、多くの企業が困窮し、即座に現金が必要となりました。

このため、前述した割引手形が一般的になりました。

しかし、当時の状況では、割引手形として譲渡した手形が、発行元の企業の倒産により無価値になるという可能性も多くありました。

これが多くの銀行で起きると、経営困難や倒産の連鎖が生じ、最終的には経済が混乱する恐れがありました。

政府はこの連鎖を防ぐため、発行元の倒産に備えて日本銀行が手形を引き受ける「再割引」を導入しました。

政府は日本銀行に一億円の補填を行い、銀行の倒産を防ぎ、経済の負の連鎖を防ぎました。

これにより、政府は企業の損失を税金で補填することで、経済の安定を図ったのです。

これらの手形は「震災手形」と呼ばれました。

震災手形の問題点

震災手形には重要な問題がありました。

具体的には、地震の混乱を利用して、本来決済不能だった手形が震災手形に紛れ込み、大量に日本銀行に提出されたことです。

この悪用例が多かったため、日本銀行が引き受けた震災手形の総額は1924年3月までに4億円を超えました。

政府は1億円を限度としていましたが、もし震災手形が4億に達した場合、そのうち1/4が決済不能になれば、政府は企業を支援しきれなくなる可能性がある計算です。

国際的な競争力が低下

震災前からの不良債権が混ざることにより、不正な手形が大量に作られた結果、震災以前から不渡を出している企業も救済され、本来淘汰すべき企業が存続してしまいました。

これにより、企業同士の競争が鈍化し、日本企業の品質が低下しました。

その結果、第一次世界大戦後、市場に戻ってきていたヨーロッパの輸入製品と競争できなくなり、日本製品の売り上げが低下しました。

金本位制の解禁不可

第一次世界大戦が始まると、各国は金本位制を禁止して金の流出を防ぐ動きが広がりました。

日本も同様に1917年から金輸出を禁止しました。

戦後、世界的には改めて金本位制を復活させる動きがありました。

しかし、日本の競争力低下と震災手形の影響により、金本位制を復活させることが難しく、金輸出解禁が遅れました。

その結果、日本は戦争被害を受けていないにも関わらず、他国と比べて経済が不利な状態となりました。

また、日本銀行の負債も影響し、金本位制の安定な運用が難しくなりました。

この問題は「財政のガン」とも呼ばれ、日本経済に悪影響を及ぼしました。

金融恐慌の対策とその後

モラトリアム(支払猶予令)の発令

関東大震災後、日本経済は混乱し、多くの企業が困難な状況に直面していました。

政府はこの状況を収束させるために、モラトリアム(支払猶予令)の実施を決定しました。

高橋是清大蔵大臣は憲法8条の規定に基づき、緊急勅令を渙発し、枢密院もこれを容認しました。

具体的には、500円以上の支払いにモラトリアムを適用し、4月22日と23日の2日間を一斉休業としました。

この際、現金の供給も大量に行われ、急造の200円札が制定されました。

銀行はこの現金を店頭に積み、取り付け騒ぎを防ぐための対策としました。

さらに、5月12日までの期間に追加の200円券を配布し、モラトリアム終了後も金融恐慌を収束させました。

この対応により、金融恐慌は防がれ、経済は収束へと向かいました。

財閥の発展

一連の好景気から不景気の流れの中で、多くの小企業は破産または大企業に吸収され、経済の中心は財閥へと移りました。

不景気を経て生き残るのは金融基盤が強い企業であり、これらの企業は財閥と呼ばれました。

また、金融恐慌は銀行にも大きな影響を与えました。

多くの人が、小さな銀行にお金を預けることへの不安感を募らせたことで中小銀行は統合され、五大銀行(三井・三菱・住友・安田・第一)が台頭しました。

恐慌後、人々は安定した銀行に預けるようになり、五大銀行が預かる資金が増大しました。

まとめ

金融恐慌は、1927年3月に突如発生し、日本経済に大きな影響を及ぼしました。

第一次世界大戦後の好景気からの急激な不況、関東大震災の打撃、震災手形の発行と問題、そして政府の対応などが恐慌の背景にありました。

金融恐慌は、企業の倒産や経済の混乱をもたらしましたが、政府や金融機関の対策によって収束に向かいました。

しかし、その影響は国際的な競争力の低下や金本位制の運用難、経済の不利な状態への影響として残りました。

昭和初期に発生した「金融恐慌」は、日本経済に大きな影響を与えた重要な出来事と言えます。

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