満州事変をわかりやすく解説!日露戦争との関わりとは?

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1931年、日本の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破したことで満州事変が始まりました。

本記事では、満蒙の権益を巡って日中が対立を深めていった経緯や、満州事変の発端となった柳条湖事件の真実、その後の展開などをわかりやすく解説しています。

日本が満州での権益を維持しようとした理由・背景や、傀儡国家・満州国の建設、リットン調査団の派遣、日本の国際連盟脱退、そして後の盧溝橋事件、日中戦争の開戦に至る歴史の流れを見てみましょう。

【基礎知識】満州事変とは?

1931年:満州事変とは

満州事変とは、1931年、日本陸軍の部隊の一つである関東軍が、中国東北部の満州で南満州鉄道の線路を爆破したことに端を発する一連の武力紛争です。

関東軍はこれを中国国民軍の仕業と断定し、日本政府の承認を得ないまま、独断で中国軍への攻撃を開始しました。

関東軍は6ヶ月で満州全土を占領するものの、このことで日本は国際社会からの非難を浴びる結果となります。

1932年、日本軍は満州を傀儡国家として中国から独立させ、「満州国」を建国するものの、国際連盟はこれを不承認とし、日本軍の撤退を認めます。

これを受けて日本は国際連盟を脱退し、国際的な孤立を深め、後に日中戦争へと突入していくこととなりました。

満州事変が起きるまでの流れ

1. 日露戦争

満州事変の遠因は、1904-1905年の日露戦争にまで遡ります。

日露戦争で辛くも勝利を収めた日本は、 ポーツマス条約により、朝鮮半島における優越権や樺太の南半分の領土に加え、満州地域の鉄道(南満州鉄道)の経営権や、遼東半島南端部(関東州=満州)の租借権などを獲得しました。

この満州と、その後の日露協約で得た内蒙古(モンゴルの一部)、即ち「満蒙」の権益は、資源や領土に乏しい日本にとって、国際競争における生命線として重要視されていくことになります。

2. 五・四運動

第一世界大戦中の1915年、日本は中国に対し、山東省におけるドイツ権益の継承や、満蒙の権益の延長・拡大などを盛り込んだ「対華21カ条要求」を突きつけます。

中国の民衆は反発するものの、袁世凱政権はやむなくこの大半を受諾しました。

その後、1919年のパリ講和会議にて、中国は改めて21カ条要求の無効を訴えますが、その主張は退けられ、中国における日本の権益の多くは国際的に承認されることとなりました。

中国の民衆は再びこれに猛反発し、同年5月4日の学生デモを発端として、各地で抗日・反帝国主義の運動が繰り広げられます。

これが「五・四運動」です。

中国政府も民衆の声を無視できず、ヴェルサイユ条約への調印を拒絶し、日本と対立していきます。

3. 張作霖爆殺事件

袁世凱の死後、中国国内では軍閥同士の権力争いが起こり、日本はこれに付け込む形で満蒙の権益を維持しようとしていました。

日本陸軍の一部隊として満州(関東州)を管轄していた関東軍は、満州で力を持っていた奉天軍閥の指導者・張作霖を利用して満州の支配権を強化しようと企むものの、当の張作霖が日本に非協力的であったことから、彼に見切りをつけ、日本政府や軍上層部に無断でその暗殺計画に舵を切ります。

1928年6月4日、蒋介石の北伐により北京を追われた張作霖が鉄道で満州に戻ろうとしていたところ、関東軍は奉天の手前でその列車を爆破し、張作霖を殺害しました。

関東軍はこれを中国の国民革命軍の仕業に見せかけようとしましたが、日本の謀略であることは中国側や国際社会の知るところとなり、中国内の対日運動はさらに激化していきました。

4. 関東軍・満蒙の危機

当時、張作霖爆殺事件の真相は日本国民には秘匿されましたが、田中義一内閣は同事件への対応が昭和天皇の怒りに触れて総辞職に追い込まれ、代わって浜口雄幸内閣が誕生します。

浜口は、武力ではなく話し合いによる満蒙問題の解決に取り組みましたが、時既に遅く、満蒙を巡る日中間の関係は容易に修復できないほど悪化していました。

 一方、関東軍は浜口内閣の弱腰な外交方針に不満を抱き、「満蒙の危機」の打破という題目を掲げ、満州の軍事支配に向かって独断専行を進めていくことになります。

5. 満州事変

満蒙の領有を目論む関東軍は、1931年9月18日に奉天郊外の柳条湖という場所で、南満州鉄道の線路を爆破する「柳条湖事件」を起こし、これを中国国民軍の犯行と断定して満州での軍事侵攻を開始します。

これに端を発する日中両軍の軍事衝突が「満州事変」です。

 6ヶ月で満州全域を占領した関東軍でしたが、アメリカは条約に反するこの軍事行動を強く非難し、日本の戦果を不承認とする声明「スティムソン・ドクトリン」を発しました。

しかし、その後も関東軍の独走は止まらず、10月には錦州爆撃で多くの犠牲者を出しています。

満州事変のその後

満州国の誕生

当初は満州の領有・直接支配を目指していた関東軍でしたが、中国軍の激しい抵抗や国際社会からの非難を受けてこれを断念し、傀儡国家の建設へと方針を転換します。

1932年、関東軍は清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀を傀儡として担ぎ出し、満州国の独立を宣言させました。

同年5月には、満州国の承認に慎重だった当時の首相・犬養毅が「五・一五事件」で暗殺され、続いて成立した斎藤実内閣は軍部の圧力を受けて満州国を承認し、これにより満州事変は日本政府によって追認される形となりました。

 なお、満州国には関連企業の関係者などのほか、「満蒙開拓移民」や「満蒙開拓青少年義勇軍」として多くの日本人が送り込まれましたが、その生活は苛烈を極めたといいます。

リットン調査団の派遣

満州国の建設を巡る日本の動きの一方で、国際連盟は、満州事変は日本の侵略行為だとする中国の提訴を受け、満州への調査団の派遣を決定しました。

こうして派遣されたリットン調査団は、1932年10月にリットン報告書を公開しますが、その内容は日本の侵略行為を事実と認定しながらも、満州における日本の権益は引き続き認めるというものでした。

しかし、調査団の結論は日本側にも妥協した内容だったにも関わらず、日本は、満州国の存続が認められなかったことを不服として、国際社会に対する態度を硬化させていきます。

熱河作戦

満州国との境に位置する熱河省では、満州国の成立後も、中国軍と関東軍との小規模な衝突が続いていました。

そうした中、リットン報告書を受けた国際連盟総会の前日にあたる1933年2月23日、関東軍は熱河省への軍事侵攻「熱河作戦」を開始します。

 この日本の軍事行動を受けて、国際連盟は満州国を巡る問題を話し合いで解決することを断念し、満州国の不承認と、日本軍の満州からの撤退を求める勧告を総会で決議しました。

国際連盟から脱退

斎藤実内閣では、熱河作戦の実行にあたり、直後の国際連盟総会で日本に対して厳しい決議がなされた場合、連盟の脱退も辞さないとする旨を閣議で決定していました。

その想定通り、2月24日の総会では日本の満州撤退を求める勧告が決議されたため、日本は直ちに国際連盟脱退を表明し、3月27日をもって正式に脱退しました。

 こうして、日本は中国のみならず、アメリカやイギリスら欧米列強との関係をも悪化させ、国際社会からの孤立が決定的なものとなります。

塘沽協定

日本の国際連盟脱退を経た1933年5月、日中間で塘沽協定が結ばれ、日本は満州の植民地支配を中国側に事実上認めさせる形となりました。

これにより、約1年半にわたって続いた満州事変はようやく停戦に至りましたが、その後も日本軍は支配地域の拡大を目論み、1935年には華北分離工作により中国内地への侵略を進めていきます。

1937年には、北京郊外に駐屯していた日本軍(支那駐屯軍)と中国軍の間で、いずれかの偶発的な発砲を発端として、盧溝橋付近での小規模な交戦が発生しました。

この「盧溝橋事件」を受けて、日本は本土から援軍を派兵し、これに中国政府も徹底抗戦の構えに出たことから、両軍の緊張は高まり、遂には日中戦争の勃発へと繋がるのでした。

まとめ

関東軍の独断専行によって始まった満州事変は、日本と中国の軍事対立の引き金となったばかりか、国際社会における日本の立場を極めて悪化させるものでした。

政府内では国際社会と穏便に協調する道も模索されていたものの、関東軍の暴走を誰も止められなかったことで、日本は継続的に戦線を拡大させ、遂には日中戦争・太平洋戦争に突入していく結果となります。

なお、満州事変がなかったら後の全面戦争も回避できたかというと、疑問が残るところです。

張作霖爆殺事件、柳条湖事件、熱河作戦と、度重なる関東軍の独走は、政府による軍部の統制が機能しなくなっていた証であり、仮に満州事変がなくても、他の何らかの原因によって戦端は開かれていた可能性が高いでしょう。

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