明治維新では新政府を中心に大きく国内の政治システムが変わりました。
例えば現在も続く「都道府県」による地方行政の管理体制はこの時期に始まる「廃藩置県」によるものです。
他にも「地租改正」、「徴兵制の実施」など近代国家を作る上で必要不可欠な政治体制がこの時期に行われました。
この記事ではその明治維新に関わる三大改革について解説します。
三大改革実施後の民衆への影響についても解説しますので、最後までお読みください!
明治維新の三大改革とは?
そもそも明治維新とは?
明治維新とは、1868年に江戸幕府が政権を朝廷に返上したことで、新政府によって進められた近代国家への改革のことを指します。
特に、「五箇条の御誓文」を中心として進められた政策のことで、この時代に多くの西洋文化が日本に取り入れられました。
こういった西洋化は「文明開化」とも呼ばれ、多くの日本人の思想や文化に影響を与えました。
明治維新における三大改革の目的
明治維新の中で進んだ三代改革の目的は、産業や軍事力で大きく諸外国に遅れをとっていた日本が近代国家になるために国内の産業と軍事力などを底上げすることでした。
これは「富国強兵」をスローガンとして行われ、西洋文明から多くの知識と思想・生活を取り入れる必要がありました。
明治維新における三大改革の概要
三代改革は「学制」「徴兵令」「地租改正」の3つを指します。
注意すべき点は、三代改革はすべて「廃藩置県」(1871年)以降に行われたということです。
これはかつて藩で統治されていた江戸時代ではその領地の徴税や軍事支配は各藩で行われており、これを県に置き換え統一することは国内の反乱を招く恐れがあったためです。
そこで政府はまず廃藩置県を行い、国内の政治基盤を固めてから三代改革を行いました。
三代改革については以下で1つずつ詳しく解説します。
学制
学制は1872年に始まった日本の教育制度改革です。
これは近代化を進めるにあたって国民1人1人の知識水準を底上げする必要があり、民衆に国を支える意識を根付かせるために行われました。
主な改革としては、性別や身分によらず全ての国民が等しく学ぶ機会を提供する「国民皆学教育」と、満6歳の男女の義務教育を導入することでした。
これは先進国であるフランスを模倣して行われたものです。
また1877年には東京大学が設立され、多くの外国人教育者がこの大学に招かれました。
徴兵令
徴兵令は1873年に始まった日本の兵役制度です。
それまでは藩士や武士のみが守っていた領地でしたが、版籍奉還により国が一体化したことで状況が変わりました。
その結果、政府は国民全員に兵役を課すことで近代的な軍隊を作ろうと徴兵令を出しました。
原則として国民の満20歳に達した男子から選抜して3年間の兵役に従事することが定められました。
これは平民・士族を問わずすべての国民から平等に選ばれたことがポイントです。
3年兵役に従事した後は、有事や訓練の際に限り召集されるように取り決められました。
地租改正
地租改正は1873年に行われた財政政策です。
近代化を進めるにあたって旧幕府の財源に頼るだけでは財政が安定せず、満足に政策を実行できない恐れがありました。
そのため政府の財政を安定させるためにも財政改革は早急に行われる必要があったのです。
主な改革としては、従来の田畑永代売買の禁止令を解除して、「地券」の発行により民衆が土地を持つ事を認めました。
そして土地ごとの収穫量などを調べ、毎年の収穫の3%を物納ではなく現金による納付(金納)で地券所有者に納税させました。
ポイントは従来の不安定な収穫高から一定の地価へ変更した事で作物の豊凶に関わらず一律に現金によって徴収されたという事です。
明治維新における三大改革が実施されるまでの流れ
三代改革を行うためにはまず、国内の体制を整える必要がありました。
ここではその前準備として行われた改革と政府の対応など3つの出来事について解説します。
廃藩置県
江戸時代では藩による各地の領土支配がそれぞれ個別に行われていました。
そのため近代化を進めるにあたって国内の領土支配を政府による統一支配に変える必要があり、新政府に属した薩摩・長州・土佐藩など4藩主は朝廷へ「版籍奉還」を行いました。
有力な藩士がこれを行った事で他の藩もそれにならって版籍奉還が進んだのち、新政府は藩制度の全廃を試みます。
武力反発の恐れがあったので有力な3藩から兵を募って軍事力を整え、「廃藩置県」を始めました。
これにより旧大名の藩士は東京に居住し、各地の藩の支配は新政府が派遣した知事が地方行政に当たることになり、国内の政治が統一されました。
岩倉使節団
廃藩置県が行われたのち、新政府は集めていた有力な政治家を2つに分けて政策を行うことになります。
そのうち1つが、海外派遣によって諸外国の文化や知識を取り入れる「岩倉使節団」です。
何より政府は開国時に結んだ不平等条約を解消させなければなりませんでした。
そのため岩倉使節団はアメリカ・ヨーロッパへ向かい条約の解消を求めますがその目的は果たせず、諸外国の政治や産業を視察して帰国しました。
留守政府
岩倉使節団が派遣されている間、日本に残った政治家は国内の政治を進めました。
メンバーは西郷隆盛、大隈重信、板垣退助らです。
彼らは日本に残り、明治維新の三大改革を中心になって行いました。
三大改革は学制・徴兵制・地租改正の3つを指し、近代国家を作る上で重要な学業の奨励、近代的な軍隊を作り諸外国へ対抗する軍事力を育成するため行われました。
その財源確保として地租改正が行われ、今までは農業の豊凶に左右されていた税収を金納に変え全国の収穫高に応じ一律に3%を納めさせることで財源確保の基盤を整えました。
参考:明治維新の三大改革 by留守政府について東大卒元社会科教員がわかりやすく解説【日本の歴史47】
明治維新における三大改革の影響
三大改革はそれまでの政治体制を大きく変えるものであり、それゆえに民衆からの反発も少なからず起きていました。
ここではその反発を中心に、三代改革によって日本はどのように変化したのかを解説します。
学制
学制が整備されたことにより民衆の知識水準は向上することになりますが、民衆は教育内容が諸外国にならった先進的なものについていけないこともありました。
また学校建設にかかる費用は各地域負担、そして教育費は各家庭が支払うことになっていたので、貧しい家庭は義務教育を受けることができず、この制度に反対する運動もしばしば起きました。
徴兵令
はじめに徴兵令が施行された時、明治政府は国に力を尽くすことを西洋の言葉を倣って「血税」と表現しましたが、これは民衆の軍隊参加への恐怖を煽ることになり「血税一揆」が起こりました。
これが鎮圧されたのち、徴兵令は国内の反乱に置いていた「鎮台」を対外政策のための「師団」へ変え、徴兵制度も全面改正を行うことで次第に民衆は徴兵制を受け入れていきました。
これは民衆の意識の変化もあり、時代が変わっていくにつれて民衆は兵役をしない人を恥だと思う人が増えていきました。
地租改正
地租改正によって従来の封建的領有制が解体され、地券を持つ地主と政府との納税が実現したことで土地の所有者が明確になりました。
また税収も安定し近代化事業のためへの資金繰りが容易になりました。
その反面で、地租改正に対する反対運動も起こりました。
従来は作物の収穫高に応じて税をとっていたので政府の収入は不安定になっていましたが、これを一律の税率にしたことで民衆の負担は凶作の時に大きく増加しました。
これによって民衆は負担を強いられることになり、「地租改正反対一揆」が起こりました。
この結果、政府の徴収する納税額が3%から2.5%に引き下げられました。
参考:明治維新の三大改革 by留守政府について東大卒元社会科教員がわかりやすく解説【日本の歴史47】
まとめ
今回は明治維新の三大改革について解説しました。
この時代を生きる人にとって土地の所有者や徴税体制が変わる事は生活に直結する大きな改革であることは容易に想像できるでしょう。
そのように考えれば、めざましい改革が行われたあとで民衆の反乱が起きたことも納得がいくと思います。
諸制度の年号や出来事の名称をしっかりおさえると時系列に沿って日本史の出来事を整理できるので、よく復習しておきましょう!
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