豊臣秀吉が行った政策とは?太閤検地や刀狩を理解しよう!

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豊臣秀吉とは一体誰?

豊臣秀吉とは

豊臣秀吉は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将・大名であり、織田信長、徳川家康と並んで戦国三英傑の一人に数えられています。

元は農民の出でありながら、信長の家臣を経て我が国初の天下人まで成り上がったことから、立身出世の代名詞とされ高い人気を誇っています。

信長から「猿(サル)」とあだ名されたことで知られる秀吉は、「人たらし」の天才でもあり、人好きのする性格で周囲の者の懐に入り込み、信用を得ていったと言われます。

有名な「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」の句は、実際に本人が詠んだものではないにせよ、工夫を巡らせ不可能を可能にしていった秀吉の性格・才覚を象徴するものといえます。

豊臣秀吉と織田信長の関わり

元は木下藤吉郎という名であった秀吉は、十代後半から織田家に仕え、普請奉行や台所奉行などの仕事を経て家中での地位を上げていきました。

信長が天下布武に打って出る頃には、織田家の有力武将として頭角を現すようになり、「金ヶ崎の退き口」や「小谷城の戦い」など重要な戦いで功績を挙げています。

その後、羽柴秀吉と名を改めた彼は、信長の重臣としてさらに活躍を重ねていくことになります。

織田信長の死:本能寺の変

1582年、中国攻めを任されて備中に進出していた秀吉は、本能寺の変で信長が自害したことを知ると、すぐさま軍勢を率いて京都に引き返し(「中国大返し」)、信長を裏切った明智光秀の軍と交戦します。

この戦いで光秀方を倒した秀吉は、続けてその残党をも討伐し、京都を掌握しました。

その後、信長の後継者と領地の分割を決める「清州会議」では、信長の孫にあたる三法師(後の織田秀信)を担ぎ上げ、さらに28万石の加増を得て勢力を拡大。

これによって対立を深めた柴田勝家を「賤ヶ岳の戦い」で破り、天下統一に向けて動き出します。

続く「小牧・長久手の戦い」では、信長の次男・織田信雄と徳川家康の連合軍の前に苦戦するものの、信雄と和議を結んで家康を臣下とし、豊臣政権の長たる地位を確たるものとしました。

豊臣秀吉の行った政策

太閤検地

天下を手中に収めた豊臣秀吉が、全国の石高を正確に把握するため行ったのが太閤検地です。

なお、「太閤」とは秀吉の官職に由来する尊称ですが、太閤検地と呼ばれる政策には、彼が太閤となる1591年以前の実施分も含まれています。

それまで各地の大名により行われていた検地は、用具や単位が不統一だったり、耕作者の過少申告があったりと、精度に劣るものでした。

そこで、秀吉は全国の検地で用いる検地竿や枡の規格を統一し、役人が直接測る仕組みとすることで、精度を大幅に改善しました。

同時に、複雑化していた土地所有の関係を「領主と農民」に一本化し、年貢の基準も従来の貫高制から石高制へと改めることで、各大名の所領を容易に管理できる形としたのです。

刀狩

1588年、秀吉は「刀狩令」を発し、農民や寺社が刀や槍、鉄砲などの武器を所有することを固く禁じました。

実際には、没収が徹底されなかったり、害獣駆除のために所持を許可されるなどの事例も少なくなかったようですが、この政策の意義は「兵農分離」の明確化にこそありました。

農民や寺社が表向き武装解除されたことで、武士階級とそれ以外の身分が明確に区別され、後の江戸幕府に繋がる封建体制の礎が築かれることとなりました。

人掃令(身分統制令)

太閤検地、刀狩に続き、1591年に秀吉が発したのが「人掃令」です。

これは、武士、町人(職人や商人)、農民がそれぞれ別の身分に変わることや、武家の奉公人が仕える主君を変えることを禁じるものでした。

本来は朝鮮出兵のための人員確保が目的だったとされていますが、結果的にこれが、俗に「士農工商」などと言われる身分の固定化へと繋がっていくこととなりました。

南蛮貿易

経済力を重視していた秀吉は、信長の時代に続いてポルトガルやスペインとの南蛮貿易を積極的に利用しました。

貿易港のある長崎や堺を直轄地とし、貿易に携わる豪商らと密接な関係を築いて利益を得ていたのです。

一方、キリスト教の宣教師らに対しては、バテレン追放令を発するなど厳しい態度で臨みました。

今日では、当初は布教を容認していた秀吉が後にキリスト教追放に転じたのは、布教を隠れ蓑とした奴隷貿易に危機感を抱いたためとも言われています。

朝鮮出兵

日本国内の統一を果たした秀吉は、次いで明への進出を目論み、その従属国であった朝鮮への出兵に打って出ます。

当時は「唐入り」とも呼ばれ、二度にわたり大規模な国際戦争が繰り広げられましたが、結果的にこの大陸進出は失敗に終わっています。

1592年:文禄の役

明の征服を目指し、朝鮮に服属を迫るも拒まれた秀吉は、西国の大名らに兵を動員させ、総勢15万人とも20万人とも言われる大軍勢を朝鮮に送り込みました。

釜山から上陸した軍勢は、僅か21日で朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)を陥落させ、朝鮮半島のほぼ全土を征服するものの、その後の軍内では加藤清正ら武断派と小西行長ら文治派の対立が激化し、また現地の兵らも戦争の長期化や伝染病の蔓延で士気を低下させていきます。

継戦が困難となった秀吉軍は、明と講和し停戦状態に入りますが、この講和交渉において明の降伏という虚偽の報告が秀吉に伝えられていたことが、後にさらなる戦いを招くこととなります。

1597年:慶長の役

文禄の役の停戦後、明の使者の来訪を経て、明が降伏などしていないことを知った秀吉は激怒し、再度の朝鮮出兵を決断します。

前回の反省を活かし、補給や陣地防衛も重視した戦略でやはり有利に戦いを進めていく秀吉軍でしたが、1598年に秀吉が死没したことで、豊臣政権は対外戦争を継続できる状況ではなくなり、全軍撤退を余儀なくされました。

五大老・五奉行を設置

秀吉は元々、甥の豊臣秀次を後継者に据えようとしていました。

しかし、1593年に実子の拾丸(豊臣秀頼)が生まれたことで、実の息子を後継者とするべく、秀次を切腹させてしまいます。

この時既に57歳と高齢だった秀吉は、徳川家康を筆頭とする5人の有力大名と、浅野長政ら5人の直臣を指名し、秀頼が成人するまでの政権運営を担わせることにしました。

後世では、この家康ら5人の大名が「五大老」、長政ら5人の直臣が「五奉行」と呼ばれることになります。

秀頼を補佐し、豊臣政権の維持を助けてくれることを期待して五大老・五奉行を指名した秀吉でしたが、彼の死後、その遺言は家康によって破られることとなるのでした。

豊臣秀吉の死後

関ヶ原の戦い

秀吉の死後、直ちに政権奪取に向けて動き出したのは、五大老筆頭の徳川家康でした。

秀吉の遺命を破り、政略結婚で諸大名を取り込んで勢力を拡大した家康は、これに反発する毛利輝元ら反徳川勢と、1600年、美濃国・関ヶ原を中心に各地で武力衝突します。

この戦いは家康率いる東軍の勝利に終わり、これによって圧倒的な権力を手中にした家康は、秀吉に続く天下人として徳川幕府を樹立するのでした。

江戸幕府

関ヶ原の戦いで勝利を収めた家康は、1603年、出自の貧しい秀吉では就けなかった征夷大将軍の官職を得て、江戸に幕府を開くことになります。

家康は、自身が秀吉の死後行ったような外様による下剋上を防ぐため、関ヶ原以前からの臣下であった譜代大名らに幕府の要職を独占させ、徳川家による日本の支配を盤石たるものとしました。

有名な「織田がつき羽柴がこねし天下餅 座りしままに食うは徳川」という歌は、信長の天下布武から豊臣政権を経て徳川幕府に至る歴史の流れを風刺したものです。

まとめ

農民の出身から天下人にまで成り上がり、果ては中国大陸への進出までも視野に入れていた豊臣秀吉。

その性格や政策は、時に寛大であったとも苛烈であったとも言われています。

図らずも、信長から家康への天下の橋渡しを担う形となった彼ですが、長く続いた戦国時代の動乱を終結させ、石高制や兵農分離など、封建制による全国支配の基礎を打ち立てた重要性は計り知れません。

信長の草履を懐に入れて温めていた逸話や、女好き・酒好きであったという人間的な側面など、その人となりを伝えるエピソードにも事欠かず、まさに日本史における最重要人物の一人といえるでしょう。

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