今回は南北朝の動乱について解説します。
約60年もの間で天皇家が北朝・南朝に分かれて対立を招いたのは、鎌倉幕府が倒されたことによる各制度の崩壊と天皇による新政治の混乱があったゆえに起きた内乱でした。
今回は南北朝の動乱が長引いた理由と、動乱の始まりと終わり、それによる影響について詳しく解説します!
【基礎知識】南北朝の動乱の概要
南北朝の動乱とは
南北朝時代は、1336年から1392年までの約60年間にわたる日本の歴史時期です。
この時代は、室町幕府の力が衰退し、朝廷と幕府の対立が激化した結果、南朝と北朝と呼ばれる2つの皇室が並立しました。
南朝は後醍醐天皇を擁し、北朝は光明天皇を支持しました。
この時代は政治上の混乱を招き、全国の武家と荘園が争いを起こしたことで幕府の弱体化を招きました。
その後に北朝から足利尊氏が征夷大将軍に任命されるとここに室町幕府が開かれ、第3代足利義満が明と交流を深めると1392年に南北朝が統一されました。
南朝と北朝が誕生するまでの歴史的背景
1. 建武の新政への不満が募る
1270年ごろから天皇家は内部対立を起こしていました。
1318年に即位した後醍醐天皇は倒幕を決意しました。
新田義貞の協力により鎌倉幕府を倒すと、建武の新政が始まりました。
これは幕府や院政・関白らを否定し天皇へ権限を集中させる政策だったので、不満が募ります。
また土地支配に関しては、その確認として天皇の文書が必要であるという仕組みを作ろうとしました。
しかし、煩雑な手続きのために混乱を招く結果となり建武の新政はうまくいきませんでした。
2. 北条時行が中先代の乱を起こす
建武の新政に不満が募る中で北条時行が1335年に中先代の乱を起こしました。
北条時行は鎌倉幕府最後の権力者であった北条高時の息子に当たり、北条氏の残党とともに鎌倉を奪還することに成功します。
3. 足利尊氏が中先代の乱を鎮圧
中先代の乱はその後鎌倉に足利尊氏が派遣されることで鎮圧されました。
足利尊氏はこの後に天皇に対し反乱を起こし、京都へ軍を送ります。
そして湊川の戦いで楠木正成を破り、入京に成功しました。
1336年に武力によって後醍醐天皇を降伏させることに成功します。
これによって建武の新政は崩壊しました。
4. 光明天皇が登場
足利尊氏が1336年に京都を制圧すると、新たに光明天皇を立てて幕府を開くために光明天皇による「建武式目」を発表しました。
これには幕府の所在地をどこにするかという点と、当面の基本政策をもつ2点に分かれて、ともに足利尊氏の諮問に答える形式で表されました。
そして政所・侍所などを設置し北条義時らの幕府を再興しようと試みました。
5. 後醍醐天皇が対抗
後醍醐天皇は京都から逃れると、現在の奈良県南部である吉野へ逃れました。
そして光明天皇に対抗し、自らが正当な皇位継承者であると主張します。
これによって吉野の南朝(大覚寺統)と京都の北朝(持明院統)に分かれ、南北朝の動乱が始まりました。
これはこの後、約60年にわたって続くこととなり、国内の混乱を招きました。
南北朝の動乱が60年続いた理由
室町幕府内部における対立
後醍醐天皇は天皇中心の政治を作ろうと奮闘しますが、1339年には死亡します。
この後約10年間は北朝による幕府作りの政治体制が固められていきます。
しかしこの室町幕府を立てようとする内部で対立が生じました。
直義派と高師直派にわかれると1348年に楠木正成が反乱を起こし、高師直に敗れます。
足利方の北朝は南朝に対し優位にありましたが、すぐに南朝を降伏できませんでした。
これは武士以外の寺社・商工人・漁民らが南朝を支持しており、彼らの情報によって南朝は抵抗をすることができたのです。
また北朝における幕府内の対立も続いており、1350年には「観応の撹乱」が起こりました。
これは足利直義と高師直の対立によっておきた争いです。
これにより幕府方の武士は対立し、南朝も巻き込んだことで足利氏が南朝に降伏しました。
そして南朝はこの期に京都を占拠し、一時的に北朝が消滅します。
やがて北朝は幕府により再建されますが、直義派の武将は南朝に寝返ることで北朝の脅威となりました。
武士団内部における対立
鎌倉幕府が倒されたことで、地方の武士団も動揺しました。
鎌倉幕府下では将軍と御家人が主従関係を結ぶことで血縁を元に行動をする体制(惣領制)が作られていました。
そして御家人が代表で御恩を将軍から受け取ると、奉公は家族単位で行うという仕組みが整っていました。
これが討幕とともに崩壊すると、惣領制も崩れ始めます。
家族内で争いが起きると、一方は北朝、もう一方は南朝に着くなどして分裂して戦うことになりました。
家族間の争いにとどまらず、領主の地域間の紛争が南北朝の対立に結びつくことで動乱を拡大させていきました。
参考:南北朝の動乱について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説【日本史24】
室町幕府の対応
有力な武士を守護に任命・地方へ派遣
室町幕府が成立すると、幕府はこの動乱を収めるため全国各地に「守護」を派遣しました。
守護は各地の地域支配を強めることで武士の支配を確立していきます。
守護は有力な武士が任命され、各地に派遣されました。
権限を強化
そして守護は幕府によって権限が強化されていきます。
強化した権限は主に4つあります。
- 刈田狼藉の取り締まり:トラブルが起きた際に守護が土地を取りしまる権限
- 使節遵行:幕府の裁判結果を強制執行できる権限
- 半済:荘園・公領の年貢を集める権限
- 闕所地預置:敵の土地を没収し、武士に預ける権限
これにより地方武士は守護によって支配されていきました。
また守護の中には勢力を伸ばし守護大名となり、のちの戦国大名へとなったものもいました。
1392年:南北朝統一
室町幕府第3代将軍である足利義満が実権を握るころにはこの動乱は沈静化されていきました。
そして1392年に足利義満が南朝と対話したことにより、天皇は北朝に決まる形で南北朝の統一が果たされました。
まとめ
いかがだったでしょうか。
南北朝統一はすぐにはなされず、鎌倉幕府が倒れて室町幕府ができるという2つの政治的混乱により長引いてしまったのです。
またそこに天皇中心の政権を立てようとした後醍醐天皇の目論見により、これは長期に及ぶ結果となりました。
人名を中心に整理し直し、次の時代に進みましょう。
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