本記事では、日本による韓国併合の起因とその経過を明らかにします。
20世紀初頭、日本と韓国の関係は複雑な背景を持っていました。
日露戦争の影響や外交交渉の歩みが、韓国併合の背後にある要因となりました。
記事の後半では、明治時代から第二次世界大戦終結までの一連の出来事を通じて、韓国併合がどのようにして終焉を迎えたのかも探っていきます。
日本と韓国の歴史的交錯を通じて、その影響に迫っていきましょう。
韓国併合とは
韓国併合とは、日露戦争の結果、大韓帝国(以下、韓国)におけるロシアの影響力が消失し、その代わりに日本の支配が強まった出来事です。
日露戦争後、日本は韓国を保護国として扱い、外交権を握り、1905年には韓国統監府を設置しました。
初代統監には伊藤博文が就任し、日本は韓国を保護国とし、さらに韓国軍を解散させました。
一連の流れに対し、韓国の民族運動家たちは不満を抱き、義兵運動が展開されました。
1909年には、民族運動家、安重根によって伊藤博文が満州で暗殺される事件が発生しました。
その結果、1910年には韓国併合ニ関スル条約に基づき、日本が韓国を併合し、大韓帝国は消滅しました。
この出来事は韓国併合と呼ばれます。
【経緯】韓国併合はなぜ起きた?
1. 明治初期の外交
明治新政府は、国境の外に勢力圏を作ることで日本の独立を守るという方針を持っていました。
そのため、朝鮮半島を隣接する重要な地域として見なし、積極的な外交的関与を模索していました。
明治新政府は、朝鮮に対して国交を結ぶことを提案しましたが、当時の朝鮮の指導者たちは、攘夷の方針を支持しており、その提案を拒否しました。
2. 朝征韓論と岩倉使節団
岩倉具視を大使とする岩倉使節団が海外派遣されている間、日本の政治家や軍人、知識人などが、朝鮮半島に対する関与の必要性や方法論について議論しました。
その中で支持されていた考え方が朝征韓論です。
朝征韓論とは、武力によって韓国を、日本の外交的、経済的、軍事的利益のために利用しようとする考え方や政策を指します。
しかし、大久保利通など岩倉使節団が欧米視察から帰国すると、この朝征韓論に反対したため、この政策は頓挫しました。
3. 日朝修好条規(不平等条約)
1871年、日本と中国(清国)の間で日清修好条規が締結されました。
この条約は、日本が朝鮮半島で清国に匹敵する影響力を確立しようとする内容でした。
しかし、1875年に江華島事件が勃発しました。
この事件では、朝鮮の江華島砲台が日本の軍艦に対して攻撃を仕掛けました。
日本の軍艦は測量活動中であり、朝鮮の一方的な行動に反応して戦闘が勃発しました。
翌年の1876年、日朝修好条規が締結されました。
日本の領事裁判権や関税免除を認めた日朝修好条規は朝鮮にとっては不平等な条約でした。
この条約により、日本は朝鮮を「独立国」と認め、開国させました。
これに対し、清国は朝鮮への支配を強化し、日本と中国の関係は一層悪化しました。
その後、日本は近代国家としての地位を確立するため、領土や国境の整備を進めていきました。
4. 日清戦争
1894年、開国した朝鮮半島を巡った争いが日清戦争です。
1876年の開国後も、朝鮮はまだ中国の影響下にある状態でした。
この時の朝鮮は日本と中国との間で揺れる状況にありました。
そのため、「外国に対抗して従来通り中国との関係を保ちたい」勢力と「日本と協力して国を発展させたい」勢力の対立が生じました。
そして、1882年には、中国を支持する派閥の軍隊が反乱を引き起こします。
一般の市民もこれに呼応して、日本の公使館を襲撃しました。
この暴動は「壬午軍乱」と呼ばれています。
結局、この騒乱は清国が軍隊を朝鮮に派遣することで収束しましたが、その後も清国は朝鮮に軍隊を駐留させ続けました。
こうして、清国と日本の軍隊が共に朝鮮に存在するという状況が生まれました。
1884年、急進的な改革派が日本軍の支援を受けて中国を支配しようとしましたが、清軍によって失敗(甲申政変)しました。
1885年、両国は天津条約を締結し、同時に軍隊の撤退や事前通告を取り決めました。
1894年、朝鮮で宗教結社(東学)の指導下で農民反乱(甲午農民戦争)が勃発。
朝鮮政府は清国に援助を求め、日本も出兵しました。
朝鮮政府は軍隊撤退を要求しましたが、日本は清への反感から戦争を望みました。
結果、日本は1894年7月に朝鮮王宮を占拠し、清国艦隊を攻撃して日清戦争が勃発。
日本は戦闘で優位に立ち、朝鮮半島の戦況を有利に進めました。
遼東半島を制圧し、黄海海戦で清軍を壊滅させるなど、勢力を拡大しました。
5. 日露戦争・ポーツマス条約
ロシアは、極東のウラジオストクなどの領域を安全に保護するために、朝鮮半島の中立を確保しようと計画していました。
しかし、日清戦争に勝利した日本は下関条約により遼東半島を手に入れました。
これに対してロシアは、朝鮮半島の中立が危ぶまれる深刻な事態だと懸念しました。
そして、将来的に満州に進出する可能性があるロシアは、日本の進出を牽制使用と動きました。
その結果、1895年、ロシアはドイツとフランスと共に連携して、日本に対して「遼東半島を中国に返還せよ」を求める三国干渉を行いました。
三国干渉後、各国が中国を分割する中、アメリカは中国の門戸開放、領土保全、平等な機会を支持しました。
ロシアはシベリア鉄道を利用し東方政策を進め、南満州支配や朝鮮進出を実行しました。
日本は朝鮮優越権保持を試みますが、ロシアが満州を占領します。
イギリスは中国市場保護のため日英同盟を提案し、日英同盟は1902年に締結。
露仏同盟に対抗しました。
結果、満州と朝鮮を挟んで二つの帝国主義勢力が対立する状況が生まれます。
日本とロシアの対話が行き詰まり、1904年2月、日露戦争が勃発します。
1905年1月には旅順を占領し、3月の奉天会戦や5月の日本海海戦で連勝を収めました。
しかし、戦争は約1年半続き、日本は財政難や多くの兵士の損失に直面します。
同時期、ロシアでは1905年1月に労働者の平和なデモが血の日曜日事件として弾圧され、第一次ロシア革命が勃発しました。
双方とも継続困難となり、両国は戦争の終結を急ぎ、アメリカの仲介で、ポーツマス条約に調印し終戦しました。
6. 韓国の植民地化
日清戦争終結後、朝鮮は冊封体制を離れ、1897年に大韓帝国(韓国)と改名しました。
しかしながら、ポーツマス条約により日本は韓国を支配し、日韓協約によって韓国は保護国の地位に置かれました。
多くの人々は抵抗し、武装して日本に立ち向かおうとしました。
とはいえ、1910年に日本は強制的に韓国を併合し、ソウルに朝鮮総督府を設立しました。
7. 伊藤博文暗殺
1909年に、満州に滞在していた伊藤博文が暗殺される事件が発生しました。
この事件はハルビンという満州の都市で韓国の民族運動家である安重根が起こしました。
伊藤は統監として韓国の政治を主導し、義兵運動を鎮圧したことが原因で、韓国人の運動家からは恨まれる存在だったのです。
8. 韓国併合
伊藤博文暗殺を契機に、1910年に日本は韓国併合条約を締結し、日本は韓国を併合し、大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は日本の植民地となりました。
この出来事を「韓国併合」と呼びます。
9. 関税自主権を回復
1911年、日本は関税自主権の回復と不平等条約の改正を実現しました。
また、植民地を獲得したことで、日本は欧米諸国にも注目される存在となりました。
韓国併合はなぜ終わった?その後
太平洋戦争
韓国併合は、1945年の第二次世界大戦の終結と日本の降伏によって終わりました。
この降伏に伴い、連合国(主にアメリカ、ソビエト連邦、イギリス、中国)は、戦後の世界秩序を築くために日本の占領と再建を進めました。
朝鮮半島は、連合国によって分割統治され、アメリカとソビエト連邦が南北に分けて影響を与えました。
韓国併合はその結果、事実上取り消されました。
1948年には南朝鮮と北朝鮮がそれぞれ独立した国家として成立し、韓国併合は正式に終了しました。
慰安婦問題
1930年代後半になると、韓国では日本が動員を始め、工場や炭鉱での強制労働や日本軍への徴兵が行われました。
太平洋戦争中、日本はシンガポール、フィリピン、ビルマ、インドネシアに攻め込み、占領地の拡大とともに軍慰安所を設置していました。
これらの被害者は「慰安婦」として呼ばれています。
韓国人女性も例外ではなく、日本軍に奉仕させるため、軍の売春施設に送り込まれていました。
この慰安婦問題は現在も完全には解決しておらず、今日まで日韓関係の間で摩擦を生んでいます。
まとめ
日本は明治時代から朝鮮半島との外交政策を展開し、経済的利益や地政学的戦略を求めて努力しました。
朝鮮半島の重要性と歴史的事情により、日本と韓国の関係は複雑でした。
日清戦争と日露戦争を経て、日本は1910年に韓国を支配し、併合が成立しました。
これにより大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は日本の植民地となりました。
しかし、第二次世界大戦の終結後、日本の降伏と連合国の占領により韓国併合は取り消され、韓国は南北に分断されて独立国となりました。
この時期には慰安婦問題も発生し、その影響は現代にも続いています。
韓国併合は歴史的背景や国際情勢による複雑な出来事であり、その影響は今日まで続いています。
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