今回は日清戦争について解説します。
近代化を進める日本にとって重要だったのは植民地の獲得であり、そのはじめに目をつけたのは清国に従属していた朝鮮でした。
この戦争が起きた時代背景から戦争に至る動機から日清戦争の経過とその結果がもたらした影響まで詳しく解説しますので、ぜひ最後まで目を通してみてください!
日清戦争の基本的な知識
日清戦争とは
日清戦争とは1894年(明治27年)7月から翌年4月まで、日本と清国(中国)で朝鮮の支配権をめぐって起きた戦争のことです。
かねてから朝鮮に影響力を強めて植民地化を狙っていた日本は、清国の援助を受けている朝鮮と対立していました。
清国はかねてからアジアの国々と調光を交わすことによる国際関係を築いており(冊封体制)、それを朝鮮にも維持しようと考えていました。
ここで日本と清国は対立が起きます。
日本が朝鮮に「日朝修好条規」による不平等条約を結ばせたことをきっかけに対立は激化します。
1894年に朝鮮で起きた反政府運動(甲午農民戦争)をきっかけに日清戦争は始まり、結果として日本は清国に勝利し「下関条約」を結びます。
日清戦争の歴史的背景
1. ロシアの南下政策
日本が清国との戦争を踏まえて軍備を拡大している中、ロシアの南下政策が始まりました。
その一環として、ロシアは1891年にシベリア鉄道の建設を開始しました。
これを恐れたのは日本だけでなくイギリスも警戒していました。
これにより日本はかねてから結んでいた「日米修好通商条約」の改正に成功します。
それに並んで他の欧州の国々とも条約の改正が行われ、日本は列強と同等の地位を得ることとなりました。
2. 華夷秩序(かいちつじょ)
朝鮮の国内は日本と清国による干渉が多く、政策は2つの意見に分かれていました。
従来通りの清国との朝貢関係(華夷秩序)を保つか、日本にならって近代化を行うかという意見で朝鮮政府はどちらを選ぶかを決めかねていました。
そこに日本は干渉し、近代化を進めるように内乱を誘発します。
攘夷思想を持つ朝鮮の大院君が反乱を起こし日本大使館を包囲する事件(壬午軍乱)がおきた際、見返りを求めて朝鮮に干渉します。
また一方で近代化をはかる金玉均らの親日改革派は1884年の清仏戦争をきっかけにクーデターを起こします(甲申政変)が、清国軍によって鎮圧され失敗に終わりました。
2つのクーデターがきっかけで朝鮮には清国と日本の軍隊が在中するようになりました。
3. 甲午農民戦争
開国後の朝鮮は対外貿易の影響により物価が急上昇し、生活に貧窮する人々が増えていました。
朝鮮政府がそれに対して有効な政策を展開しないので、東学と呼ばれる民族宗教が人々の間で広がり、政府への反感を募らせます。
これによって起きた1894年の大反乱が「甲午農民戦争」です。
朝鮮政府は鎮圧に際して清国へ要請を送りました。
清国は天津条約に則って出兵の通知を日本に送ると、日本も朝鮮へ兵を向かわせます。
朝鮮政府と東学派の人々は和解しますが両国の軍隊は撤退せず、同年8月に日清戦争が始まりました。
日清戦争の経過とは?
1. 豊島沖の戦い
日本との戦争をいち早く察した清国は朝鮮の牙山にいた軍を平壌まで撤退させようとします。
これを知った日本はそれを阻止すべく海上で清国軍と交戦します。
d7月25日に起きたこの戦いが「豊島沖の戦い」です。
この戦争は日本軍の勝利に終わりました。
この間海軍を指揮した東郷平八郎は誤ってイギリスの船を撃沈してしまいます。
しかし東郷平八郎はイギリス留学をしていたため、和解が成立し大きな国際問題になることはありませんでした。
2. 平壌の戦い・黄海海戦
豊島沖の戦いの一方で、陸上では朝鮮の中央に位置する漢城に日本軍の拠点を築いていました。
対する清国は漢城から北にある平壌に拠点を構えており、また漢城南部にある牙山にも軍を在中させていました。
日本軍は漢城を攻めるために、挟み撃ちを避けるためまず牙山攻略(7月25日)に出ます。
これに勝利した日本軍9月14日平壌へ進軍します(平壌の戦い)。
本土からの援軍もあって平壌制圧も成功しました。
この翌日、平壌以西の黄海で清国軍と交戦しました(黄海海戦)。
兵站確保に苦しみつつも黄海海戦で日本軍は勝利を収めます。
3. 旅順口の戦い・威海衛の戦い
平壌から清国軍を撤退させた日本軍は、清国首都付近の直隷地方を狙います。
そのためには遼東半島と山東半島を攻める必要がありました。
1894年11月に日本軍は遼東半島にある旅順口へ軍を向け、清国軍と交戦(旅順口の戦い)しこれに勝利します。
翌年2月に威海衛の戦いで勝利すると、士気を失っていた清国軍は降参し講和することになりました。
参考:太平洋戦争を簡単にわかりやすく解説【起きた原因とその結果を年表付で!】
日清戦争の結果
日本
日本は日清戦争の後清国と「下関条約(1895年4月)」を結びます。
その内容は「朝鮮の独立を認める」「遼東半島・台湾・膨湖諸島を日本へ割譲」「賠償金2億両を日本へ支払」「新たに重慶・杭州など4港を開港」の4つでした。
下関条約の内容が公表されると南進政策を進めるロシアは遼東半島の割譲に干渉し、これを返還するよう日本に要求します(三国干渉)。
日本は大国の要求に抗うことができずこの要求を受け入れました。
これを機に日本はロシアへの敵対心を増していき、後の日露戦争へと繋がっていきます。
朝鮮
下関条約によって清国との関係が断たれた朝鮮は日本からの政治干渉を受けることになりました。
しかし日本の朝鮮支配は朝鮮がロシアと結びつきを強めたことで難航しました。
これは日本とロシアとの関係を悪化させ、対立を深めていきました。
清国
下関条約を結ばれ敗戦した清国はかつての「眠れる獅子」という強大なイメージを失います。
列強国は敗戦に乗じて負債を抱えた清国に土地の租借を要求しました。
清国はこれに応じ、ドイツ・ロシア・イギリス・フランスなど列強国によって多くの土地が租借されました(中国分割)。
清国は弱体化の一途をたどり、後の辛亥革命へと繋がっていきます。
参考:面白いほどわかる日清戦争!簡単にわかりやすく解説【目的と原因、影響から下関条約までの流れをバッチリ確認】
日本が日清戦争に勝利した要因とは?
日本は日清戦争が始まる前から新聞を中心とする世論で士気が高まっていました。
富国強兵政策により軍隊が近代化したことで、その軍事力は強まっていました。
それに対し清国は軍備が整っておらず、その組織体制も近代のものとは劣っていたことから日本軍に対して不利な状況下であったと言えます。
軍の統率が取れており、かつ軍人の士気が高かったことが兵力は拮抗していた両国の勝敗を分けました。
まとめ
大国だった清に日本が勝利したことは世界的に見ても驚くべき出来事でした。
それまで日本は極東の小国としか捉えられていなかったのが、これに勝利したことで一気に列強国に並び立つようになりました。
この戦争をきっかけに日本はロシアとの対立を深め日露戦争へつながっていくので、特に戦後処理については詳しく復習しておきましょう!
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