明治政府の三大改革の一つとして行われた「地租改正」。
これは1200年以上続く日本の税制度を刷新することとなった大きな改革です。
改革の概要は土地所有者に対し「地券」を発行し、収穫高ではなく地価から割り出した一定の税率で納税を行うというものです。
本記事ではこの地租改正の内容とその結果日本にどのような影響があったのか、詳しく解説します!
地租改正の概要
地租改正とは
地租改正とは明治政府が行った「学制・徴兵制の実施」「廃藩置県」に並ぶ3大改革の1つです。
近代化を進める明治政府はその政策に関わって財源を安定させることが必要不可欠でした。
このため1873年に、政府は地租改正に着手しました。
1873年:地租改正法による変更点
地租改正は1871年に地券の発行によって始まりました。
それから73年に地租改正法(条例)が公布されると、民衆の税納付は大きく変わります。
その仕組みについて以下の4つについて解説します。
課税基準:収穫高→地価
それまでの税制度はその土地ごとの収穫高に応じて納入額を決めていました。
そのため毎年税収は不安定で財源の見込みを立てることが難しかったのです。
地租改正の大きな目的は、この不安定な税収を安定させることにありました。
そのため政府はこれまでの収穫高で決めていた税収から地価によって一定の税金を収めるように変更しました。
形式:物納→金納
それまでの税制度では農民たちは物納による納税を行っていました。
これは自らの作物や生産品をそのまま幕府へ納めることを意味しますが、明治政府は貨幣の流通を目的としてこれを金納へ変更しました。
課税基準と形式が変わったことでこれまで政府が負っていた価格変動リスクが農民へ引き継がれるようになりました。
税率:3%に均一化
それまでは藩士が収穫高などを見て納入分を決めていましたが、これには地方役人が横領することや農民が税の軽減を求めて賄賂を行うなど不正が横行していました。
政府はこれらを透明化するために、税率を地価の3%と均一に固定しました。
また以前は納税の対象外だった商人や寺院の関係者も納税をすることなり、公平性の向上に繋がりました。
土地への認識:納税者→土地の所有者
江戸時代では藩を管理する大名が全ての土地の所有者であり、また納税の手続きを行っていました。
地租改正を行うにあたって、これを見直し土地の測量と土地管理者を明確にする必要がありました。
政府はそのため、地券と地券台帳を作成して誰が納税義務者なのかを明確にしました。
この地券は、1880年代の土地台帳と登記簿制度に引き継がれ、現在でもなお使用されています。
参考:嵐山町web博物誌
地租改正の目的
地租改正の目的は明治政府がこれから近代化に向けて様々な政策を展開する中で、財源である税金収入を安定化させることでした。
江戸幕府の体制をそのまま引き継いでは凶作や災害が起きた際に政府に税金が入らなくなります。
江戸時代では主に米による納税が行われていましたが、これは米の収穫高や土地ごとの収穫量に大きく左右される仕組みになっています。
これでは計画的に予算を組むことができず、政策の実行に影響が出る恐れがあります。
そのため政府は諸政策を始める前にこの地租改正を行う必要があったのです。
参考:地租改正とは?東大卒元社会科教員がわかりやすく解説【日本史】
参考:5分でわかる地租改正!目的や理由、内容、その後わかりやすく解説!
地租改正のために行われたこと
地租改正を実行するにあたって地券の発行は必要不可欠でした。
地券とは土地の持ち主(地主)に対して発行された土地管理の権利証です。
その土地の所有者や土地の地積などを明記し、それに基づいて一定の地価を表記しています。
土地の所有者に変更がある場合は再度地券を発行し、新しい土地管理者に渡されました。
参考:嵐山町web博物誌
参考:5分でわかる地租改正!目的や理由、内容、その後わかりやすく解説!
地租改正の結果
地租改正は長く続く土地管理制度を変える大胆な政策だったため、民衆を含め日本に大きな影響がありました。
以下でその影響について大きく4つに分けて解説します。
納税者からの反発
地租改正の税率の固定は農民に負担がかかるものでした。
特に凶作時は十分な収穫高が無くても土地の3%の税金を納めなければならず、改正後の方が負担が大きくなってしまいました。
農民たちはこれに対し負担を減らすよう反発がおきました。
それは農民だけでなく、それまで課税対象外だった商人や寺院関係者もこの改正に対して反発しました。
入会地が国有地化
地租改正による各地の測量によって、それまで村など村落共同体で使われていた「入会地」と呼ばれる山林や河川など共用の土地が全て国有化されました。
これにより今まで共用で使えていた土地の利用が制限され、自由に土地が使えないことに村落の人々は困窮してしまいました。
地租改正反対一揆
地租改正に対し反感を持った人々は政府に対して税率の引き下げを求めて一揆を起こします。
これが「地租改正反対一揆」と呼ばれるもので、現在の山形県や岐阜県、群馬県、熊本県など日本各地で起こりました。
これに対し明治政府は江戸時代の税収より低くなることを容認しつつ税率を3%から2.5%へと引き下げました。
これは日本各地で起きた一揆が大規模な内乱になることを避けるための措置でした。
高額納税者の参政権
地租改正反対一揆を受けて、政府は納税義務者である土地所有者に対して高額納税を行った人に参政権を与える仕組みを作りました。
これは一揆を起こさないようにするためのもので、高額納税者には非選挙権や投票権が与えられました。
農民出身の議員を作ることで、より国民の意見を反映した政治にするためのものでもあります。
これによって一揆は一度は収束を迎えます。
参考:5分でわかる地租改正!目的や理由、内容、その後わかりやすく解説!
参考:嵐山町web博物誌
まとめ
1873年に始まった地租改正は一定した税率への変更、物納から金納、地券所有者を納税者とすることが定められました。
政府はこれにより作物の豊凶に関わらず安定した租税を仕組みづけることができた反面、国民の負担は増えて一揆が起こります。
政府はそれに対して税率を変更し柔軟に対応することでこれに並行する「学制・徴兵制」の実施や「廃藩置県」「殖産興業」など様々な政策を展開することができました。
地租改正のキーワードは「地券」を絡ませてどのような仕組みであったのかじっくり整理しておきましょう!
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