土地制度の変遷とは?歴史の流れを把握することが大切

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日本の土地制度は時代が変化するごとに変わっていきます。

どの土地制度がどの時代に起きたかを押さえておくことで日本史の流れも見えてきます。

今回は日本の土地制度の変遷について古代から現代までの土地史を詳しく解説します!

土地制度は時代と共に大きく変化

土地制度は時代の移り変わりで変わっていきます。

その最たる例として、豊臣秀吉が行った太閤検地や明治時代の地租改正など、時代が発展するとともに生産の要である農地はその影響を大きく受けてきました。

なので土地制度の流れをつかむことは時代の特徴を理解することにつながります。

時代の変化と照らし合わせながら見ていきましょう。

【日本史】土地制度の変遷

公地公民

645年、飛鳥時代に行われた「大化の改新」の一環として公地公民制が始まりました。

それまで豪族が各地の土地と人民を支配していました。

これを変えて全ての土地と人民は天皇が支配すると定めたのが公地公民制です。

各地を支配していた豪族たちには貴族の身分を与えて反乱を防ぎました。

班田収授法

奈良時代に入ると天皇を中心とする律令国家体制を作る動きが活発化します。

701年に実施された班田収授法はその政策の1つで、戸籍を元に6歳以上の男女に一定の口分田が支給される仕組みです。

また口分田は売買が禁じられている上に、所有者が死亡すると国に返還する仕組みになっていました。

口分田に重税が課されたことで田を捨てて逃亡する民衆も現れました。

墾田永年私財法

班田収授法に続き723年には三世一身法を発布して民衆に田畑の開墾を奨励しますが、これも三代しか土地の所有が続かないのでうまくいきませんでした。

これにより政府は743年「墾田永年私財法」を発布します。

これは開墾した土地の所有を永年保障する法律で、それまでの公地公民制を否定することになりました。

また地方豪族などの私有地拡大を増長することになりました。

荘園

墾田永年私財の法により寺社や豪族が次々と開墾を進め、所有する土地を増やしていきます。

彼らが開墾した土地は「荘園」と呼ばれました。

荘園の多くは800年ごろに成立しはじめ、その数は年々増えていったことで豪族は力をつけていきました。

荘園整理令・荘園公領制

朝廷は乱立する荘園を管理するために法律を発令します。

902年には醍醐天皇による「延喜の荘園整理令」が出されました。

これは民衆が寺社などに田畑や舎宅を寄贈することの禁止と、寺社が未開の山野を独占することの禁止などがなされました。

しかし初期農園の多くは税を逃れるために有力貴族に荘園を寄進していました。

このような荘園を「寄進地系荘園」といい、これらは貴族の権力によって地租の納税を免除されていました。

1069年に後三条天皇は「延久の荘園整理令」を発布します。

これにより税の免除がされる荘園とそうでない荘園が明確になりました。

この結果、日本は貴族・寺社が持つ荘園と国の持つ公領に分かれたことからこの体制を「荘園公領制」と呼びました。

鎌倉時代の土地制度

鎌倉幕府が成立すると、源頼朝は1185年に「守護・地頭」制度を始めます。

これは今まで貴族や豪族が行ってきた荘園の管理を地頭に行わせ、年貢の徴収を行うというものです。

国内の警備などにあたる守護は将軍と主従関係を持つ御家人から選ばれました。

地頭の権力は強く、自身の裁量で農民から年貢を集めます。

これを見た幕府は荘園を領主と地頭で半分に分ける「下地中分」を行いました。

室町時代の土地制度

室町幕府では各地の大名の支配は守護によって行われていました。

このため地頭よりも守護の力が強まっていき、荘園の運営はやがて守護が行うことになりました。(守護請)

安土桃山時代の土地制度

太閤検地

戦国時代を過ぎて、豊臣秀吉による太閤検地が始まると、それまでの土地制度は大きく変わります。

まず秀吉は測量の単位を統一し、全国の土地面積を調べました。

そして各地の生産力を調べ、それを「石高」で表しました。

これが江戸時代に続く石高制の始まりです。

江戸時代の土地制度

江戸時代は農民の米生産によって幕藩体制が敷かれていました。

この農民を管理しつつ、年貢を納めさせることで幕府の政治や経済は回っていたのです。

江戸幕府は農民にある程度の自治を任せつつ年貢をとる方針をとっていました。

五人組制度などがその最たる例です。

田畑永代売買禁止令

幕府は農民の生活を安定させるために政策を展開しました(農民統制)。

それが「田畑永代売買の禁止令」です。

これは農民の田畑を売買することを禁じた法律です。

これは農民が餓死しないようにするための制度でした。

農民の生活を安定させることで年貢を確実にとることが幕府の狙いでした。

明治時代の土地制度

石高制には作物の豊凶によって収める年貢の額が毎年変わってしまいます。

明治政府は国内の改革を行っていく中で政府の財源である税金を毎年一定にしようとしました。

これによって行われたのが地租改正です。

地租改正

1873年から始まった地租改正によって大きく変わった点は3つです。

    • 課税基準が収穫高から地価へ
      石高制では各地の収穫高に応じて税収を変えていました。
      そのため作物の収穫寮に対応して収める税金も増減していたのです。
      これを明治政府は地価による税収へと変えました。
    • 税率が地価の3%に固定
      石高制では藩士らが収穫高を見て納める年貢を決めていました。
      しかしこれには地方役人の横領や農民が減税を求めて行う賄賂など、不正のもとになっていました。
      政府は納める税金の額を地価の3%に固定したことで、一定の税収を得ることができました。
    • 物納から金納へ
      江戸時代では税を納める時、作物や生産物をそのまま幕府へ納めていました、明治政府はこれを金納へと変更します。
      これにより日本に貨幣が流通し、経済発展の基礎を作ることになりました。

昭和時代の土地制度

明治から戦後に至るまで、農地は地主と小作人の関係によって管理されていました。

地主は自身の所有地を小作農に貸し付け、小作料を得ることで議会の選挙権などの社会的地位を持っていました。

その中には地主自らが農業に従事せず、小作人からの小作料に依存する寄生地主もいました。

農地改革

そんな中で、日本は終戦を迎え深刻な食糧不足に陥っていました。

そこで始まったのが農地改革です。

1945年12月に第一次農地改革が幣原喜重郎内閣によって提案されますが、地主制度を解体しようとする動きは当然地主によって反対されました。

GHQの圧力を受けた中で1946年に始まった第二次農地改革では政府が農地を買い上げ、実際に農業にあたる小作人に売り渡されました。

結果として小作地は当初の1割程度まで減少しました。

農民の生活基準が上がったことで国内消費が拡大しました。

しかし零細経営を中心とした農業構造が改善されることはなく、高度経済成長を迎えると第2次・第3次産業との格差が拡大することになりました。

まとめ

今回は日本の土地制度の変遷について解説しました。

公地公民制から荘園制、石高制から地主声へと移り変わっていく背後には、いつも時代の変化があることに気づけたでしょうか。

現在の日本へと続く土地制度の変遷ですが、これを整理することで時代感覚も掴みやすくなります。

また今の日本が抱える問題も歴史を遡るとその発端を見ることができます。

土地制度の移り変わりをよくおさえておきましょう。

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