動乱の戦国時代が関ヶ原の戦いによって終わると、徳川家康によって約200年の間江戸時代が続きました。
本記事ではこの時代によって日本がどう変化したのか、そして長く続いた江戸幕府がどのように滅亡したのかをわかりやすく解説します。
特に幕末は日本史の中でも時代が変わる大きな節目の時代です。
江戸幕府が行った「大政奉還」の裏には様々な人物と諸外国の影響があります。
人物や諸外国の動きに着目してみてください!
【基礎知識】江戸幕府とは?
1603年:江戸幕府の成立
豊臣家の天下統一が豊臣秀吉の死によって揺らぎ、かねてから天下取りを目論んでいた徳川家康は豊臣家の存続を願う石田三成と対立し、1600年に全国の大名を巻き込んで関ヶ原の戦いを起こします。
大規模な戦であったにもかかわらず徳川家康の策によって戦いは半日で終結します。
関ヶ原の戦いによって勝利した徳川家は、江戸(現在の東京)に幕府を開きます。
江戸幕府は室町時代の応仁の乱から始まる長き戦乱の世を沈め、様々な政策によって国内を安定させました。
265年も続いた江戸幕府はその安定した政治によって経済や文化も発展させました。
江戸幕府の特徴
幕藩体制
幕藩体制とはかつての大名と江戸幕府将軍との繋がりを決める制度です。
一定の領地を持つ大名にその土地「藩」を管理させました。
この藩は現在の都道府県の元になっているものであり、それぞれの藩は江戸幕府に密接に関わりのある大名から江戸に近く置かれました。
江戸から近い場所には徳川家と血縁を持つ「親藩大名」、関ヶ原の戦いより前から使えていた「譜代大名」、関ヶ原の戦い以降に使えた「外様大名」の3つに区分されました。
外様大名は幕府に対して反乱を企てないように江戸から一番離れた場所に配置され、参勤交代制度が導入された以降はその費用の捻出に苦しみ、財政は常にひっ迫していました。
身分制度
江戸時代には民衆の身分が厳しく定められました。
これは別名「士農工商」と呼ばれるもので、民衆を大きく武士、百姓、職人、商人に分けたものです。
支配階級である武士は幕府の連帯責任制度である「5人組」と、「田畑永代売買の禁止令」により被支配階級の百姓を厳格に管理しました。
大名統制
将軍と主従関係を持つ、1万石以上の土地を持つ武士を大名と呼びます。
幕府は大名に全国各地の藩を管理させましたが、大名があまりに大きな力を持つと幕府にとって危険な存在になり得ます。
そのため幕府は大名統制を行うために、2つの制度を導入します。
1つ目は「一国一城令」です。
これはその名の通り大名がもつ国には1つの城しか築いてはいけないという法律です。
2つ目は、大名が守るべき規範である「武家諸法度」です。
この2つに違反した大名は、石高や領地の削減・没収といった形で処罰を受けることになりました。
参考:江戸時代│江戸幕府とは – 刀剣ワールド
参考:鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の特徴と違いを解説!
【理由】江戸幕府が滅亡するまでの流れ
1853年にペリーが浦賀に来航したことをきっかけに、それまで鎖国状態にあった江戸幕府は開国を迫られます。
ペリーは数隻の黒船とともに日本に来航し、空砲とともに技術力・軍事力を見せつけました。
すでに18世紀後半に産業革命を終えた諸外国に鎖国によって遅れをとっていた日本はペリーらの強硬な態度に対抗することができず、翌年の1854年に日米和親条約を結ぶことになりました。
1. 日米修好通商条約(幕府の弱体化)
それに次いで、江戸幕府は1858年に日米修好通商条約を結びます。
かねてから日米和親条約によって開港した下田と函館に加え、横浜・長崎・新潟・神戸の開港をすることになりました。
またこの条約は日本に滞在する外国人の領事裁判権を認める「治外法権」と、貿易に関わる日本の関税は日本に決定権のない「関税自主権の欠如」を認める不平等条約でした。
2. 尊王攘夷運動
尊王攘夷運動とは、幕末に広まった政治思想のことです。
尊王は王を撃退し攘夷は外敵を撃退することを意味します。
この思想は特に科学研究が行われた江戸時代末期から、主に長州藩と薩摩藩を中心に広がっていきました。
その時期に幕府が朝廷の許可を得ないまま不平等条約を結んだことは各地の大名の怒りを買いました。
当時幕府の重役である井伊直弼は反発した武士や大名をすべて厳格に処罰しました(安政の大獄)。
尊王攘夷運動を先導した長州・薩摩藩が外国との戦いに敗れたことによりこの運動は討幕、天皇中心の政治改革へと変わっていきます。
坂本龍馬を仲介人に両藩は同盟を結び(薩長同盟)、その動きは加速していきます。
桜田門外の変
井伊直弼は1860年に江戸城桜田門で暗殺されます。
不平等条約の締結と安政の大獄によって討幕派の反感を買っていた井伊直弼は、江戸城へ向かい桜田門を通る際に水戸・薩摩藩士によって暗殺されました。
この事件以降、幕府の権威が低下したことで朝廷の力が強くなっていきます。
3. 大政奉還
1867年に薩長同盟が結ばれ、討幕の動きが活発化したのを坂本龍馬は危惧します。
特に武力によって討幕派と幕府軍が争うことは、日本よりも強い武力を持つ諸外国から侵略される隙を作ってしまう恐れがありました。
そのため坂本龍馬は土佐藩前主を通して将軍徳川慶喜に政権の返還を進めました。
かねてから世の中の変化を見ていた徳川慶喜はその提案を受け入れ、同年政権を朝廷に返す大政奉還を行いました。
王政復古の大号令
大政奉還が行われたのち、西郷隆盛と岩倉具視らが朝廷で王政復古の大号令を発します。
これにより260年以上続いた江戸幕府が終わり、天皇を中心とする新政府が樹立されました。
新政府はこれまでの将軍や朝廷の摂政・関白も廃止し、天皇を中心に新たに役職を作り薩摩藩や有力諸藩の藩士を取り入れた形になりました。
4. 戊辰戦争
幕府への処遇に不満を抱いた旧幕府軍が新政府軍と1868年に「鳥羽・伏見の戦い」で衝突します。
これを機に1年半の間戊辰戦争が始まりました。
この際江戸城を攻撃するという意見が新政府軍の間で起こりましたが、勝海舟によってそれは防がれ江戸城は無血開城となりました。
旧幕府軍は北海道の函館まで追い詰められた結果降伏し江戸幕府が滅亡しました。
江戸幕府が滅亡したその後
明治政府の誕生
大政奉還によって江戸幕府が政権を天皇に返上すると、1868年にこれに変わって新政府が樹立されました。
新政府は諸外国に並び立つために国策の指針として「五箇条の御誓文」を発表しました。
天皇親政を強調し、公議世論の尊重と開国和親などを示したこの誓文を基軸として、様々な政策を展開していきます。
同年7月には江戸を東京と改名し、8月明治天皇が即位したことで年号が明治に改元されます。
幕府が行った政治は「富国強兵」をスローガンに古い体制を刷新するものでした。
その例として、藩制度を全廃し新たに県をおく「廃藩置県」、「学制・徴兵制の実施」や「地租改正」、身分制度はすべて見直され、区分されていた4つの身分は平等となる「四民平等」などが行われます。
四民平等によって士族の特権は剥奪され、その際たる例が帯刀を禁じる「廃刀令」です。
これらの政策によって「文明開化」が起こります。
諸外国の文化も流入し、民衆の生活も西洋を取り入れたものになりました。
まとめ
今回は江戸幕府の誕生と幕末の動きについて解説しました。
長い間続いた江戸幕府の緻密な政治体制は様々な文化を開花させた反面、鎖国による諸外国との遅れをとってしまいました。
ペリー来航でそれが明らかになった時、いち早く開国し時代を変えるきっかけを作ったのは坂本龍馬を中心とする藩士達でした。
文明開化がおこり明治の世へ変わっていくこの幕末の世が少しでも面白く感じたら幸いです!
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