今回は江戸時代中期に起きた三代改革の一つである「享保の改革」について解説します。
これは第8代将軍徳川吉宗によって行われた政治改革のことで、幕府の組織構造が見直された他、米の収穫に関する流通や財政の改革を中心に行われました。
今回は享保の改革の発端となった問題、改革の経過から結果まで詳しく解説します!
【基礎知識】享保の改革の概要
享保の改革とは
享保の改革とは江戸時代における改革の一つで、第8代将軍徳川吉宗によって1716年から29年間の在職期間の間で行われた諸政策の改革のことです。
享保の改革は江戸時代中期の変化を代表する改革でした。
米の収穫が増えたことによる財政難の解消から、民衆の意見を取り入れるための目安箱の設置、新田開発の奨励や人材登用における改革など多くの改革を行いました。
徳川吉宗ってどんな人?
徳川吉宗は江戸幕府の第8代征夷大将軍であり、徳川家康の曾孫にあたる人物です。
「暴れん坊将軍」として有名で、享保の改革という大胆な政治を行ったことで知られています。
徳川吉宗はその名に「家」の文字が無い通り、本来将軍になることはない紀州藩の親藩大名の一人でした。
徳川宗家の血統が途絶えた場合のみ紀州藩含む尾張徳川家、水戸徳川家の三藩から選ばれることになっており、徳川吉宗は選定の最後である紀州藩の四男であったために将軍になる可能性が低かったのです。
享保の改革が起きるまでの歴史的背景
金銀産出量が激減
17世紀後半頃から金銀の産出量が激減したことにより、幕府の収入源が少なくなっていました。
江戸時代では貨幣として金銀、特に金が一両の単位として使用されており、金の需要が非常に高かったのです。
明暦の大火で支出が増加
1637年に起きた明暦の大火によって、幕府は復興事業の際に大きな支出をすることになりました。
文治政治が続く江戸時代中期は「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が今でも残っているように、何度もこのような大規模の火事に見舞われたために支出が多かったのです。
明暦の大火は1657年1月18日の午後、本郷丸山本妙寺で火の手が上がり、神田・京橋・隅田川周辺に広がった広範囲の火事を指します。
これにより江戸城や本丸・二の丸などが消失し、死者は100000人を超えたとされています。
明暦の大火はローマ大火やロンドン大火に並ぶ「世界三代大火」とされています。
米価安による貨幣収入の減少
農業が発展したことにより米の生産力が上がりました。
この結果、米価が他のものに比べて安くなる事態が起きました。
これにより幕府は米の換金によって得られる収入が極端に減ることとなり、幕府の関係者の俸給が減ってしまいました。
享保の改革の内容
このような背景の中で、第8代将軍徳川吉宗は財政改革のため改革に取り組みます。
享保の改革は財政の改革以外にも「目安箱の設置」や「小石川養生所の設置」、「公事方御定書」の制定など多くの改革がありますが、ここでは幕府の財政改革について詳しく解説します。
支出の削減
まず改革の一つ目として、武士の支出を抑える方針を打ち出しました。
これは質素倹約令と呼ばれるもので、将軍も自ら木綿の服を着て、食事も1日2食で一汁一菜を徹底して行いました。
これを見た幕臣・武士たちは将軍にならって贅沢を禁じました。
また幕府の大奥も支出の問題となっていました。
徳川吉宗は従来4000人近くいた大奥を大量解雇して、1300人に減らしました。
これにより武士だけでなく農民にも倹約の影響が伝播し、全体で支出を抑える動きへと繋がっていきました。
また徳川吉宗は幕府役人の給料に関する「足高の制」を行いました。
これは新しく役職に就任する者の給料が以前は役人が死亡した後も家に支払われていたのに対し、徳川吉宗はこれを在職中のみ支払うという形に変えました。
収入アップ
幕府は臨時に収入を引き上げるために、各地の大名に対して石高1万石につき100石を幕府に上納させる「上げ米」政策を実施しました。
幕府へ上納する代わりに参勤交代の負担を減らすことで大名たちを納得させました。
これは鎌倉時代の御恩と奉公の関係でたとえて言えば、御恩(上げ米)も減らして奉公(参勤交代)も減らすという政策でした。
また年貢高を決める方法も検見法から定面法へ変えたことで、収穫の豊凶に関わらず一定の年貢高を収めるようにしました。
そして、西日本で当時盛んになっていた商品作物の生産に着目し、新田開発の開墾を奨励しました。
これにより米の増産も見込めるようになりました。
米価の引き上げ
江戸幕府は堂島の米市場を承認するほか、大名や商人に米の購入をさせたり米の流通量を操作したりすることで、米価の引き上げを図りました。
享保の改革の結果
幕府の財政は安定
享保の改革によって幕府の財政は財政は安定化を見せます。
将軍専制や官僚組織にあたる幕府内部の構造が見直され、政治が安定したことにより幕府は権威を取り戻すことに成功しました。
百姓一揆が増加
幕府の財政は安定した一方で、農民の負担は大きくなりました。
後世では徳川吉宗は「庶民の味方」という印象が根強くありますが、実は農民にも年貢の負担を大きくするなど庶民にも負担を強いていました。
これは財政を安定化させるために、毎年の年貢額を収穫高から決めるのではなく一定の石高を収めるように変えた「定免法」が原因の一つとなっています。
また、「五公五民」制度によって、これまでは領主4割、農民6割としていた生産高における取り分を互いに半々に変更しました。
これにより農民の負担は増え、収入は減るという結果になりました。
そして1732年に享保の大飢饉が起きると餓死者は全国で1万人にも上り、全国で凶作になりました。
これをきっかけに百姓一揆が増加し、江戸では「享保の打ちこわし」がおきました。
徳川吉宗はこの情勢をみて凶作に強いさつまいもの栽培を奨励しました。
寛政の改革
商品作物の栽培が財政安定化のためにすすめられた結果、村社会は変容することになりました。
有力な百姓は地主(豪農)となり、零細農民を使って地主経営を始めました。
土地を失った小作人が都会に流れることで都市部の様相も変化しました。
これはのちに寛政の改革に繋がっていくことになりました。
享保の改革について理解を深めよう
徳川吉宗が行った享保の改革は幕府の財政を安定化させて権威を取り戻した一方で、民衆に負担を強いることになりました。
その背景は自然災害や米の産出量の増加など、人為的ではない問題が多くありました。
徳川吉宗は米生産について多くの変革をもたらしただけでなく、幕府の組織構造を変化させることでその後の幕藩体制にも影響を与えました。
これらは百姓一揆を起こす結果となりましたが、幕府の財政を安定化させるという目的は果たすことに成功しました。
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